哲学部
人間の社会、文化、芸術、科学、技術はすべて哲学からはじまった。哲学は、だからいろんなことを教えてくれる。
News Stories

ディヴィッド・ヒューム【DAVID HUME】

ディヴィッド・ヒューム(1711-1776)は、カントへ影響を与えたという点で、経験主義者のなかでも最重要視されている人物だ。スコットランドのエディンバラの近くで育った。ヒュームは、フランスの偉大な思想家のヴォルテールやルソーと同じように、啓蒙主義の時代のまっただなかに生きた。ヨーロッパ中を旅して、最後はエディンバラへ戻った。主著は『人間本正論』。28歳で上梓。ヒュームは、それまでの哲学者のあいまいな概念や思考の産物をすべて打ち消すことが自分の務めだと思っていた。どんな哲学も「わたしたちに日常の経験を超えさせることはできないし、日常生活の反省から得られる指針を超えさせることもできない」。たとえば、ヒュームの時代には人びとは本気で天使を信じていた。もちろん、実際に天使を見た人間はいない。が、みんな、人間を見たことはあるし、翼を見たこともある。ヒュームによると、天使という概念は複合概念なのだ。2つの別々の経験からできていて、人間の頭のなかで合体させられたものなのだ。つまり、この概念は嘘っぱちだから捨ててしまわなければならない。そうやってぼくらは、思考や概念をすっかり大掃除しなければならない。ヒュームはこういった。「神学でも形而上学でもいい。本を手にとったら、そこに大きさや数についての抽象的な思考過程が書いてあるかどうか問うべきだ。事実や現実についての、経験に支えられた推論が書いてあるかどうか問うてみるべきだ。それらがなければ、その本は火にくべてしまえ。その本はまやかしとペテンしか書いていないのだから」。本は燃えても世界は無傷で、むしろ以前より輪郭はくっきりしているだろう。

ヒュームは、人間は印象と観念をもっていると考えた。印象とは、外の現実から直接感じとったことで、観念はそういう印象の記憶。たとえば、ストーブでやけどをしたら、そのとき直接の印象を受けたことになる。やけどしたことをあとで思いだしたとすると、それが観念。違いは、印象は、観念つまり記憶より強烈でなまなましいということだけだ。知覚をオリジナル、観念や記憶をかすれたコピーといってもいい。さらに、ヒュームは、印象にも観念にも、単純なものと複合されたものがあるといった。このとき問題なのは、ぼくらは現実とは一致しない観念を複合によってでっちあげることがあるということだ。自然界にないものの偽の観念は、そうやってできあがる。天使やペガサス、鬼、こういうものはみんな、ぼくらの心がでっちあげたものだ。それぞれの部分はかつて実際に経験したもので、本物の印象として心という劇場に入ってきた。なにひとつ、心が発明したものはない。心はハサミとノリで偽の観念を組み立てる。

天国もそうだった。この時代、多くの人びとが天国についてのはっきりした観念を持っていた。だが、すぐにわかるが、天国はいろんな要素を複合したものだ。天国には真珠の門や黄金の道があり、天使がいる。真珠や門や黄金や道や白い衣を着たものや翼といった観念――わたしたちの頭にあるかつて出会って獲得した観念をひとつの夢のようなイメージにつなぎ合わせたものなのだ。黄金を見たことがない人に黄金は思い描けない。ヒュームは、神についても答えている。ぼくらは神を、無限に聡明で無限に善の存在だと想像する。これも、かつて出会った聡明なものと善いものの観念の複合観念なのだ。神の観念には、厳しく公正な父だ、という要素もある。これも、きびしさと公正さと父の組み合わせだ。

さらに、ヒュームはぼくらが、日常生活のなかでも、適切かどうかを考えもせず、複合観念を使っていると指摘した。「わたし」や変わらない「自我」などがそれだ。デカルトは自我はハッキリした観念だとし、自分の哲学の礎にしたが、ヒュームは「目にもとまらない速さで連続し、つねに流れ動いているさまざまな知覚の束」と表現している。つまり、同時には体験できない一つひとつの印象の長い鎖のようなものなのだ。ぼくらの心は「劇場のようなものだ。さまざまな知覚が次々と登場しては去り、消えてはまた浮かびながら、際限なくいろいろなシーンを繰り広げている」。だから、ヒュームによれば、ぼくたちは変わらない人格なんてもっていない。人格はスクリーン映る動く映像のようなものなのだ。映像は本当はつながっていない。瞬間を無数に継ぎ足したものなのだ。

ちなみに、ヒュームのこの普遍の自我の否定を、2500年も前に地球の裏側でやった人物がいた。ブッダだ。2人の言葉は気味悪いほどそっくりだ。ブッダは、人間の一生とはひとつながりの精神的、肉体的な過程だ、といった。人は瞬間ごとに変わっていく。赤ちゃんはそのまま大人にはならない。今日のわたしは昨日のわたしではない。「これはわたしのものだ」といえるものはなにもない。だから、「わたし」もなければ、変わらない人格もない、と。

変わらない「わたし」の観念の延長線上に、合理主義者たちは不死の魂があると考えていたが、ヒュームもブッダも偽の観念といっている。ブッダは死ぬ間際、弟子たちにこういった。「諸行無常」。組み立てられたものはいつかすべて解体するという意味だ。ヒュームも魂の不死や神の存在を証明しようとする試みを否定した。といっても、両方ともありっこないと考えていたわけではない。信仰の問題を人間の理性で証明しようとするのは、合理主義のはったりと考えていたのだ。キリストへの信仰も奇跡も否定はせず、信仰の問題で理性の問題ではないといった。彼はキリスト教徒ではなかったが、無神論者でもなかった。不可知論者だったのだ。よくわからないことには決着をつけないとする主義だったのだ。先入観にとらわれない、フェアな態度をつらぬいたのだ。

奇跡がありえない、ということを経験してはいない。奇跡は自然法則に反するものだが、ぼくらは自然法則を経験した、ともいえないのだ。たとえば、石を投げると落ちてくることを経験するが、落ちてこなかったら、それもまた自然法則として経験するし、つねに落ちるということは経験してはいない。石は重力の法則で落ちるというが、そういう法則をぼくらは経験したことがない。ぼくらはただ、ものが落下するのを経験したにすぎないのだ。ぼくらが不変の自然法則と思って観念は、じつは習慣による予断からできあがっているのだ。

だから、自然法則そのものを経験できない以上、へたするとまちがった推論をする可能性もある。たとえば、視界にいる馬がすべて黒いからといって、すべての馬が黒いわけではない。稲妻を雷鳴の原因と思いこんでいる人もいるが、両方とも放電の結果だ。黒猫を見かけたあとで転んでケガをしても、両者に因果関係なんてない。ある薬でたくさんの人の病気が治ったとしても、その薬がその人たちを健康にしたかどうかはわからない。薬だといって、たくさんの人に小麦粉を飲ませる実験が必要だ。時間を追って起こる出来事はかならずしも原因と結果の関係にはない。早合点は禁物なのだ。それをいましめるのは、哲学の重要な使命だ。早合点はいろんな迷信のもとになる。

ともかく、信仰と知の最後の絆はヒュームが断ち切ったといっていい。

道徳と倫理についても、ヒュームは合理主義の考え方に反対した。合理主義者は、善悪を見抜く力は人間の理性に宿ると考えた。ソクラテスからロックまで、多くの哲学者がそう考えた。だか、ヒュームは、感情が言動を決めると考えた。困っている人を助けるのも助けないのも感情が決める、というのだ。人間は他人の幸不幸に対する感情を持っている。共感する能力がある。が、このことと理性は無関係。だれかを殺すことは、かならずしも非理性的とはかぎらない。なにかを実現しようとしていて、邪魔者を排除することが合理的な手段である場合もあるからだ。みんなが死にたくないと考えているから、殺してはいけない、というのは理性的な意見ではない。事実判断がそのまま価値判断になっているが、これはバカげたロジックだ。新聞や政党の綱領や議会演説などてよく見られる論法だが、まったく非理性的だ。

ぼくらがどうふるまうべきかを理性で測ることはできない。責任のある行動、正しい行動をとるのは、ぼくらの理性がたしかだからではない。他人の幸不幸に対する感情の確かさにかかっているのだ。自分の指にひっかき傷をつけるくらいなら全世界を破壊した方がましだ、という考え方は理性に反してはいないのだ。ナチが600万人ものユダヤ人を殺したのは、感情が抜け落ちていたからだ。冷酷な決定は、計算高い冷たい理性がおこなうものなのだ。

現実の不確かさを知ると、人は恐怖を覚える。だが、実存的不安というやつで、新しい認識への過渡期にあらわれるものだ。



40代前半。この年になると仕事でも私生活でもいろいろ思うところがあり、思索にくれるうちに頭がこんぐらがってきたから、ブログに思いのたけをつづって、ついでに問題を整理しようと思ったのが、当サイト開設のきっかけ。だから全部、日記みたいなもの。
Leave a Reply