哲学部
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新プラトン学派の教え「神秘的体験が魂を救済」

ローマ時代(古代末期)の哲学の潮流のなかでも、いちばん注目すべきなのはこの新プラトン学派(紀元前200年ごろ)。プラトンのイデア説に影響された一派で、最重要人物はプロティノス(204~269年)だ。

プロティノスは、エジプトのアレクサンドリアで哲学に親しみ、ローマへ引っ越した哲学者。ギリシア哲学とは少し毛色の異なる「救いの教え」をローマにもちこんだ。

プラトン哲学とオリエント神秘主義を融合した思想

プラトンはぼくらの五感が感じとる、かりそめの世界「感覚界」と、その背後にある本当の世界「イデア界」とをきっちり区別した。

ぼくらのこころとからだは完全に別物だ、といいきった。

ひらたくいうとこんな感じ。

  • 感覚界のものはぜんぶ、土と埃でできている。
  • ぼくらの肉体も土と埃でできている。
  • でも、ぼくらの肉体は不滅の魂をもっている。

アジアのひとたちもこれに似た密儀思想をもっていて、プロティノスはそっちにも通じていた。じつはこれ、彼がアレクサンドリア出身であることと深い関係がある。

アレクサンドリアはヘレニズム時代、ギリシア哲学とオリエント文明(古代エジプトからメソポタミアにいたる一帯)の神秘主義が出会い、数百年かけて溶けあっていった都市だからだ。

そんな背景があったものだから、プロティノスのなかでは、プラトン哲学とオリエント神秘主義がごった煮にされて、新たな形而上学――簡単にいうとイメージ――が形成されていったらしい。

神の光が魂を照らすことで、自然界の姿は見えている!?

彼はこの世界を、

2つの極のあいだに張り渡されているもの。

と考えた。

もうちょっとわかりやすくいうと、

ひとつの極にあるのは、神々しい光である「一者」「神」といいかえてもOK。

もうひとつの極にあるのは、。光も届かない暗黒である。

けれども、闇というのは存在しない

闇は、光がまったく存在しない状態だから、闇がそこに本当に「ある」わけではない。

プロティノスによると、物質は闇。ぼくらの肉体も闇。本当は存在なんてしていない。でも一者(神)の光が魂を照らすと、魂がその光を跳ねかえし、自然界をうっすら照らしだすのだそう。

そして魂は、生きとし生けるものすべてに備わっている。

だから自然界のすべての生きものは、その内側に神の光を宿す。野辺に咲くたんぽぽや道ばたに生える雑草、草っ原を元気に跳ねるバッタや、小川をすいすい泳ぎまわるメダカたちのなかにも、神の存在をかすかにではあるけれど見ることができるのだという。

タンポポの花

古今東西を問わず、ひとは神秘的体験をする

人間の魂は、ほかの生きものよりずっと神に近い場所にある。人間が大いなる生命の神秘とひとつになれるのも、こころのなかだけなのだ。

ぼくらはときどき、自分自身の存在に「神の神秘」を感じることがある。たとえば、自分がごく小さい部分(細胞)の集合体であるのと同様、自分自身ももっと大きなもの――自然や地球、宇宙の一部なのだと感じたりする瞬間なんかがそれ。

プロティノスも生涯に何回か、神と魂が溶けあう体験をしたという。

これを「神秘的体験」といい、プロティノスはぼくらの精神の究極的な目的もこの神秘的体験――一者(神)との神秘融合(エスタシス)にあり、これが魂の救済につながるといった。

古今東西、いろんなひとが神秘的体験をしている。時代も場所も超え、そうした記述はたくさん残っているのだ。

キリスト教と新プラトン学派

プロティノスの提唱した、新プラトン学派のこの説は、このころ絶賛売り出し中だったキリスト教の向こうを張ることとなった。

けれども、キリスト教神学やルネサンスの宗教観カントやシェリング、ヘーゲルなどに代表される「ドイツ観念論」にも無視できない影響を与えることになる。

つづく



40代前半。この年になると仕事でも私生活でもいろいろ思うところがあり、思索にくれるうちに頭がこんぐらがってきたから、ブログに思いのたけをつづって、ついでに問題を整理しようと思ったのが、当サイト開設のきっかけ。だから全部、日記みたいなもの。
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